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本能寺の変の真相(美濃説)

 私が考える本能寺の変の真相について書いていきたい。というのも、大河ドラマ麒麟が来る」のストーリー展開が私の考えとだいたい同じところに向かっている気がしていて、このままだと、私が考えたことなのに大河ドラマのパクリと思われてしまう可能性がある。大河ドラマのラストを見る前に書いたのでパクリではないと言うための証拠を残しておきたい。

 ネット上には、本能寺の変の真相と題された怪文書が数多あるが、その末席にでも加えていただければありがたく思う。

 まず、本能寺の変が成立する条件を見ていく。それが明智光秀単独では実行不可能であるため、どのような共犯関係があったのかを見ていき、真相に近づいていきたい。

 本能寺の変は、兵を挙げ、奇襲を仕掛け、殺害する、という、暗殺に近い事件だ。普通に兵を挙げて、戦争するという謀反は荒木村重がやったが、全くうまくいかず、刺客による暗殺も、杉谷善住坊がやったがうまくいかなかったので、このような形になったのだろう。

 これが成立するためには、

1.兵を挙げる理由 が必要になる。命令がないのに出兵準備など始めれば、動きはすぐに信長に伝わり、警戒されて奇襲は失敗するだろう。

 そして、

2.信長が無防備な状態であること

 軍勢を率いて攻め寄せたとしても、ある程度信長が持ちこたえれば、情勢を聞きつけた部下たちが駆けつけてしまうだろうし、軍勢同士が戦っている隙に信長に逃げられても謀反は失敗する。無防備な状態の信長を攻め、そのまま殺してしまう必要がある。

 さらに、

3.信長の嫡男も同様に無防備な状態で、近くにいること

 信長を首尾よく倒したとしても、後継者である信忠が生きていれば、信忠を中心に家中はまとまり、明智は謀反人として討伐されるだけだろう。だから、嫡男の信忠も、同日同時刻に同じ場所か近くに無防備な状態でいてもらい、そのまま倒されてもらう必要がある。

 これらの条件が全て満たされたので、本能寺の変は成立した。これらの条件をひとつひとつ見ていく。

 

 兵を挙げる理由は向こうから転がり込んでくる。ここから当時の状況がよく分かるので、『現代語訳 信長公記』からつぶさに見ていく。

 本能寺の変の前年、1581年の記述

 

 八月十三日、因幡の国鳥取城の救援に、安芸から毛利輝元吉川元春小早川隆景が出陣するとの風説があった。そこで信長は、在国の部将たちは命令がありしだい、信長の先陣として出陣できるよう、夜を日に継いで少しも油断なく出動態勢を整えるように命令を発した。 丹後では細川藤孝父子三人、丹波では明智光秀、摂津では池田恒興を大将として高山右近中川清秀・安部二右衛門・塩河吉大夫らに先に命令が出され、このほか、近隣諸国の武将、お馬廻り衆にも無論、出陣準備をして待機するよう命令が発せられた。「このたび毛利の軍勢が鳥取救援に出陣した時は、信長自ら出陣し、東西の軍勢がぶつかって合戦を遂げ、西国勢をことごとく討ち果たし、日本全国残るところなく信長の支配下に置く決意で ある」とのことであったから、部将たちもその覚悟で臨んだのであった。

 なかでも、細川・明智の両人は、大船に兵糧を積み込ませ、細川は船の指揮者に松井康之を、明智も船の指揮者を任命して、因幡鳥取川に停泊させておいた。

 

 兵を挙げる理由とは関係ないのだが、この記述の重要なポイントとしては、”日本全国残るところなく信長の支配下に置く”というところだ。信長の目的は、日本全国を武力占領するか服属させて信長の支配下に置くことだ。天皇を中心とした中央集権体制が確立していた古代日本であっても、東北の方は支配できていなかったし、それ以降は日本全国を個人が支配したなんてことはなかった。鎌倉幕府において土地の支配者は土地の支配権を認められた武士個々人である。武士は土地の支配権を与えられたという御恩に対して奉公し、与えられた地を一所懸命の地として守るというのが鎌倉幕府の仕組み。室町幕府においても土地は武士のものであり、国(今でいう県ぐらいの意味)は守護のものと考えられていた。

 鎌倉幕府はそもそも関東を中心とした政権であったし、土地も個々の武士のものなので「日本全国鎌倉幕府の土地だ」ということは出来ない。室町幕府は朝廷と一体化して、天皇や貴族とともに国を治めるという体であったし、土地は武士のものとされながら、国は幕府のいわば役人である守護のものとなっており、守護は京都で暮らし、国の方では守護代が国内の武士たちをまとめ、守護と対立したり、適当にあしらったりなどしながら、時には下剋上して守護を謀殺したり追放したりしていた。とてもではないが「日本全国足利将軍家の土地だ」とか「日本全国室町幕府のものだ」とは言えなかった。

 だから、「日本全国信長のものとする」というのは、前例がないのみならず、破天荒であり、危険思想である。

 将軍は、天皇や関白を中心とした朝廷から将軍に任命されることで、日本の統治権を与えられたので、各地の武士に対してああしろこうしろと命令できるというロジックになっていて、鎌倉幕府室町幕府はそれにより、権力の根源を朝廷に依存したまま、日本を統治していた(といっても室町幕府末期では命令されてもまともに聞いちゃいなかったが)。信長が日本全国を武力占領して統治するなら、朝廷にお墨付きをもらう必要なんて何もないことになる。各地を治める国主は自分の部下であり、命令を聞かせることは容易い。

 それでも信長が朝廷を尊重し、朝廷から与えられた役割を受け入れて朝廷の下で働いてくれるなら、朝廷を動かす貴族たちは満足しただろう。信長はこのとき朝廷から与えられる官位、朝廷から与えられる役職を拒んでおり、無位無官となっていた。朝廷から何のお墨付きも受けず、朝廷の役職についていない人間が、日本全国を支配しようとしていた。

 朝廷は古来より日本を統治してきたことになっているので、これに危機感を覚えるのが普通だと思うが、朝廷内部の人は京都の人なので、表立ってなにか言うことは稀だ。そもそも圧倒的な権力者である信長に楯突いては、自分の地位はなくなってしまいかねない。だから内心「これはまずいのではないか」と思っていても、実際に行動に移すことができるのは、自分の地位が惜しくないか、危機感を感じやすいか、よくよく変わった人だけだったのではないかと思う。

 しかし、朝廷内の一部の変人が勝手に動くことで、歴史が動いていくというのは、幕末なんかを見るに、朝廷ではよくあることだろう。

 

 ”日本全国残るところなく信長の支配下に置く”の意味はひとまずこのくらいにしておく。この信長公記の記述によれば、1581年8月、毛利と決戦するために、いつでも出兵できるようにしておけ、という命令が下り、特に細川や、変の主役である明智光秀は入念に準備を整えているのが見て取れる。

 この体制は、おそらく、本能寺の変までずっと続いている。秀吉の中国地方攻略が着々と進む中で、毛利本軍の出陣を今か今かと、織田勢は準備を整えて待っている。

 そして1582年5月、毛利本軍が出陣し、出陣のお触れが出る。変の発生は6月2日なので、その直前である。

 

安芸から毛利輝元吉川元春小早川隆景が軍勢を率いて駆けつけ、秀吉の軍勢と対陣した。信長はこれらの情勢を聞いて、「今、安芸勢と間近く接したことは天の与えた好機である。自ら出陣して、中国の歴々を討ち果たし、九州まで一気に平定してしまおう」と決心した。堀秀政を使者として秀吉のもとへ派遣し、種々の指示を伝えた。明智光秀細川忠興池田恒興・塩河吉大夫・高山右近中川清秀には先陣として出陣するよう命じ、ただちにそれぞれ帰国の許可を与えた。五月十七日、明智光秀は安土から坂本に帰城し、 その他の面々も同様に国もとへ帰って、出陣の用意をした。

 

 信長は”九州まで一気に平定する”といっているようだ。あまり実現可能な話には見えない。 

 それはともかく、毛利との決戦を控えた状況で、明智光秀と信長は出陣の準備を整えていく。そして奇妙なことが次々と起きて、信長は明智光秀の手にかかることになる。

 

2.信長が無防備な状態でいること

 

 次はこれを考えていく。先に述べたように、毛利との決戦を間近に控え、信長自ら出陣の用意を整えつつあるさなか、突然、信長は少数の家来を率いて、京都に向かって出発する。

 

 安土城本丸のお留守衆に、織田信益・賀藤兵庫頭...(以下、お留守衆の名が並ぶが中略)。 これらの者に命じ、お小姓衆二、三十人を召し連れて上洛した。「ただちに中国へ出陣せねばならぬので、戦陣の用意をして待機、命令ありしだい出陣せよ」という命令であったから、このたびはお小姓衆以外は随行しなかった。

 

 そして変の2日前、5月29日に京都に入る。

 

 これが何を目的とした上洛であったか、信長公記には記述がない。変の前日である6月1日、言経卿記によると、この時、高位の公家がほぼ全員出席した茶会が催されている。また、日々記によれば、この時、正親町天皇と次期天皇である誠仁親王の「両御所」からの勅使が来ている。勅使に対し、信長は「暦を東国で使われてるものに変更し、12月の後に閏月を入れるべき」と主張している。6月1日の段階で突然12月の後に閏月を入れるというのはありえないことなので、「それは無理だ」と勅使や他の公家は意見を述べたという。

 

http://www.cyoueirou.com/_house/nenpyo/syokuho/syokuho16.htm

 

 大戦を間近に控えたこの時期に開かれた「茶会」が一体何を目的にしたものなのか、よくわからないことになっている。高位の公家がほぼ全員出席していることから、公家たちを歓待することは目的の一つであろうと思われる。

 徳川家康を歓待するためだ、という説もあるが、徳川家康の接待については信長公記に詳しく書かれているが、そんな茶会の話はのっていないし、そもそも両御所からの勅使を迎えたり、高位の公家を大量に招く方が徳川家康を歓待するより目的として重いはずである。

 公家たちの接待が目的だとして、そんな接待をする目的は何か。暦を突然変えるという無理難題のために、このような大きな茶会を催すというのも不自然だろう。それより大きな問題がこの時信長と朝廷の間にはあった。三職推任問題がそれだ。変の約一月前の4月25日

 

 勧修寺晴豊、村井貞勝(「村井」)邸へ赴く。この時、勧修寺晴豊は勅使として近江国安土へ下向した際に得た織田信長返書を受けた誠仁親王からの「安土へ女はうしゆ御くたし候て、太政大臣か関白か将軍か、御すいにん候て可然よし」という意向を村井貞勝に伝達した。〔『日々記』〕

 

 ということで、太政大臣か関白か将軍に推薦する用意がある、と誠仁親王から打診を受けている。

 そして6月1日、両御所からの勅使が来ているので、当然これについての話があると信長は考えていたはずである。しかし、勅使が来ているにも関わらず特に何の通達もなく、逆に暦の話を信長からしている。

 そしてその後高位の公家が大量にやってきて、そこで三職推任の話をするのだろうと信長は思ったかもしれない。しかしそこでも特に何の話もなく、茶会が行われた後、そのまま囲碁の対局を鑑賞したと言われている。そして本能寺で夜を過ごし、明け方に明智勢に襲われた。

 

 私が言いたいことはこの段階で明らかだと思うが、これは信長を京におびき寄せ、本能寺の変を成立させるための罠であるように見える。現状何ら証拠のある話ではないので、結論を出すことはできないが。

 私の考えは、朝廷主犯説というわけではない。本能寺の変の主役は明智光秀である。明智光秀に命令を下せるのは織田信長以外にいない。朝廷が主犯であるためには、明智が信長に仕えながらも、実は朝廷の意を受けて動いていて、朝廷の命令に従って光秀が変を起こす必要があるが、それはさすがに陰謀論が過ぎるように思う。

 全部の絵図を描いたのは、もしかすると明智ではないかもしれない。しかし、決行を決断したのは明智であり、実際に主殺しの汚名を着たのも明智である。朝廷の役割は、最大でも教唆、従犯までであり、主犯にはなれない。

 といっても歴史上朝廷は、平家に対抗するために源氏を挙兵させたり、足利尊氏に対抗するために新田義貞に錦の御旗を与えたり、豊臣に対抗するために徳川に征夷大将軍を与えたり、徳川に対抗するために薩長に錦の御旗を与えたりと、権力の移動に関してキャスティングボードを握っているので、明智が無理でもそのうち誰かにやらせたのではないかという気がする。

 

 彼らがどうやって作戦を立てたか。9ヶ月前から、毛利本軍が出陣すれば信長や明智も出陣することは分かっていた。明智が兵を挙げるタイミングをコントロールすることが可能だった。

 毛利本軍出陣に合わせて三職推任の勅使を向かわせるという話をすれば、明智が出陣準備を整えるさなかに、信長を京におびき寄せることが可能だった。就任祝いのために高位の公家が集まるという話をすれば、安土ではなく京で公家たちを接待するという話になるだろうし、38種の茶道具を集めて大茶会の準備をしてもおかしくはない。

 

 三職推任を打診し、本能寺に天皇とともに勅使を送り、この流れに大きな影響を及ぼしたと思われる誠仁親王であるが、天皇位が譲られる直前になって急死している

 

信長の後継者となった豊臣秀吉は、譲位して上皇となる正親町天皇のための「院御所」の建設に着手するなど、譲位に積極的に取り組む姿勢を見せたが、誠仁親王は譲位を待たずに天正14年(1586年)7月に急死してしまった。あまりの突然の死は社会に衝撃を与えたらしく「秀吉が誠仁親王の側室と密通したことに抗議して自殺したのだ」あるいは「誠仁親王に代わって秀吉が天皇になるつもりだ」などという噂が流れた。実際は、誠仁の遺児和仁親王後陽成天皇)が同年11月に祖父の猶子とされて皇位を譲られた。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%A0%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

 

 秀吉が殺したことが疑われているが、上記のように疑っていけば誠仁親王本能寺の変に深く関わっていると思われるので、そのように考えた、あるいはその証拠を得た秀吉により殺されたのかもしれない。

 

3.信長の嫡男も同様に無防備な状態で、近くにいること

 

 これについても考えていく。これは、いままでの話の流れで簡単に説明できる。

 

6月1日 勧修寺晴豊、二条昭実一条内基九条兼孝と共に織田信忠(「城介殿」)を訪問するも「見参」は無かった。〔『日々記』〕

 

 信長と勅使として謁見した後、日々記の著者で武家伝奏武家と朝廷の間の窓口役)の勧修寺晴豊は、次期関白の二条昭実、現関白の一条内基、前関白の九条兼孝を連れて信長の嫡男である織田信忠を訪ねているが、会えなかった。これだけのメンツを揃えて会えないというのは相当のことだ。

 関白にゆかりのある3人が揃っていることから、本来は信長の関白就任の相談をする予定で話が通っていたのかもしれない。しかし、信長に対して関白就任の話も何もなかった。信忠としても、会う理由がない、というより、朝廷が事前の話と違う行動をとったので、裏切りと考え、会わなかったのだと思われる。

 信忠は、信長が京に来るずっと前、5月21日の段階で京に来ている。信忠は信長から既に家督を譲られており、名目だけではあるが、織田家当主である。それが毛利との大戦を間近に控えたこの時期に、京で10日間も、何をしに来たかよくわからない用事で長期間滞在し続けている。

 これもまた、信長の関白 or 将軍 or 太政大臣就任の舞台に居合わせるため、あるいは関白たちの訪問を受け、織田家当主として今後について話し合うため、といった名目で呼び出され、待っていたのだろうと考えられる。

 朝廷がうまく信長と信忠を操り、明智光秀の奇襲を可能にした。逆にいえば、朝廷の協力がなければこのような機会は作り得ないので、朝廷の協力があった、と私は考えている。

 ただ、朝廷が信長/信忠暗殺に対して一枚岩でまとまり、陰謀の実現のために高位の公家たちが一斉に動いた、というふうには考えがたい。近衛前久・信尹のような奇妙な考えを持った公家や、誠仁親王のような一部勢力が進め、他の公家はよくわからないままに言うことを聞いていただけなのではないかと思う。

 

 朝廷の関わりはこのくらいにして、今度は明智の側の事情を見ていこう。

 

明智の思惑

 

 明智がなぜ本能寺の変を起こしたか、という問題で、よく言われるのが、四国説である。しかし、四国への取次に失敗し、長宗我部が可哀想な状態におかれ、明智も失敗の責任をとって降格か何かさせられるかもしれないが、だからといって明智が謀反を起こす理由になるかといわれれば首を傾げざるを得ない。

 意味がわかる理由がないと納得できないのが人だろう。では例えば、荒木村重の謀反の原因はなにか、といわれたら、これもまたよくわからない。荒木村重個人が何を考えたのかは、書き残されていないのでわからず、結論の出しようがない。ただ、荒木の謀反は国を挙げての謀反であり、荒木は摂津国主だった。つまり、摂津の武士や百姓たちが信長の支配をよく思っていなかったので、国を挙げて反旗を翻した。個人の動機ははっきりしないが、この時代はまだ土地の支配者は基本的に武士であり、武士個々人の好き嫌いによって、土地を管理する者に対する謀反が発生するかしないかが変わってくる。

 明智の場合も同じで、明智が反旗を翻したのも、近江、丹波、河内等の国衆が織田の天下をよく思っていなかったからだということは言えるだろう。光秀に従った兵はそういった地域から出ていて、光秀が信長を討ったあともバラバラに散ったりはしていない。

 摂津やそれらの国々は京に近く、室町幕府の権力争いで日常的に戦い続けている地域なので、上が気に入らないと反旗を翻すのは、そのあたりの武士たちの本能的な振る舞いなのではないかと思う。

 土地の支配権を持っているということは、土地の主としての自己決定権を持っているということなので、気に入らなければ簡単に謀反を起こしてしまう。各地の戦国大名たちは、武力によってその土地の武士たちを隷属させていき、自己決定権を奪っていったが、京周辺は応仁の乱以来、自由気ままに争い続けていて、特定の領主に隷属することを良しとしない風土があったように思う。

 明智や荒木は、無論個人の思惑もあっただろうが、基本的には彼らに付き合っただけ、という言い方もできるだろう。

 

 彼らが信長の何を気に入らなかったか、と根本的なところを問えば、信長は土地を自分のものだと考えているというところではなかろうかと思う。信長は土地を自分の部下に管理させ、本来父祖伝来の一所懸命の地であるはずのそれぞれの武士の土地が、信長の部下によって管理される、信長の所有物へと堕しているように感じられたのではないか。

 歴史的にその流れはうまくいかず、軌道修正され、最終的に江戸幕府が成立し、国は江戸幕府に認められた藩主のもの、それぞれの武士は藩主に忠誠を誓い、武士の土地は藩から管理を任されたものになる。土地の支配者が武士個人から藩へと移ることで、世が治まった。

 それはもちろん、自己決定権をもっている藩が幕府に逆らわなかったからであり、逆らうようになった幕末には潰れてしまったわけだが。

 武士は、それぞれの土地にいる藩主に忠誠を誓う事はできても、日本中が一個人に対して忠誠を誓うというのは、結局の所、この国では難しいのではないかと思う。なので信長がやろうとしていたことは、最初から難しすぎる試みだったのではないかという気がする。

 

 話を戻すが、いずれにしても、明智個人の思惑は、明智自身が言明しなければ基本的に不可知だ。後世の我々は当時の状況をつぶさに見ていき、推測することしかできない。

 

 当時の状況の中でもう一つ重要に思えるのは、明智家の重役の多くを占める美濃出身者たちの思惑だ。私が思うに、本能寺の変の動機には美濃勢も深く関わっているような気がしている。

 

・美濃勢の事情

 

 美濃は当時、尾張と共に織田家の本領とされていて、信忠の居城である岐阜城を中心に、織田家家督を継いだ信忠によって支配されていた。

 なぜ美濃が織田家の本領とされたかといえば、斎藤道三が娘婿である織田信長に対して、死の前日、長良川の戦いに向かう直前に「美濃国譲り状」をしたため、信長に送ったから、とされている。

 その書状が本物なのか、本当にそんなものが送られたのかはよく分かっていない。しかし、信長は「道三から国を譲られた」と主張し、それを大義名分にして美濃を侵略し、手中に収めている。なので、美濃は由緒正しい織田家の本領である、というロジックになる。

 

 が、当時国主ではなかった道三が死ぬ前に譲るといったところで国は譲れるものではないし、たとえ道三が国主だったとしても、隣国の馬の骨に「譲る」とされて国衆が納得できるというものでもない。本来、国が誰のものかは室町幕府に決定権があるはずだが、その決定権は下剋上の世となり失われて久しかったにしても、なんらまっとうな手続きを経ずに織田家のものとされているので、美濃勢の中にも、納得いってないものがいたものと思われる。

 その中でも特に、本来の国主であった美濃守護の土岐家の一族や、守護代であり道三の国盗り後は国主であった斎藤家には思うところがあったのではないか。

 

 美濃国譲り状を送り届けたとされているのは、斎藤道三の末子、斎藤利治と言われている。彼が届けたというのが史実かはわからないが、彼は本能寺の変において、信忠とともに立てこもり、忠死している。

 

 彼が一体何を考えていたのか。

 

 斎藤利治信長公記に、通称である斉藤新五の名で、たびたび登場する。とんでもない量の武功を上げていて、出世して加治田城を与えられ、信忠の側近となっている。

  本能寺の変の少し前にあった、甲州征伐で、信忠軍は武田家を簡単に倒した。信長もあとからゆっくりと戦地へと向かったが、信長が付く前に戦は勝利に終わっていた。

 信忠の優秀さが裏付けられたわけだが、この戦いに、信忠軍団の中核であったはずの斎藤利治はなぜか参戦していない。病に冒され、信長、信忠親子から休養命令が出ていたとも言われる。

 

 その後本能寺の変の直前になり、信忠と合流したとされている。南北山城軍記には

 

利治は病気であり、信長・信忠に心配され、御供を外されていたが、利治は病気を治ったとし、深夜密かに出発し、岐阜城留守居である兄の斎藤利堯へ寄らずに通り過ぎ、安土城にいる姉である濃姫へも立ち寄らず、信忠御陣である二条城へ本能寺の変前日に合流した。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%88%A9%E6%B2%BB

 

 とある。この奇妙な動きを見ると、変が起こるのを知っていたように思える。

 

 書いてあることをそのまま信じる事はできないが、親類である斎藤利三が、明智の部下として深く関わる乱であるので、そのツテで変の発生を事前に知っていたのかもしれない。

 変を事前に知っていたと思うもう一つの理由は、本能寺の変が勃発した後、信忠の居城である岐阜城が兄の斎藤利堯によって占拠されている。

 

天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変当時は、岐阜城留守居だったと見られるが、変報を受けると城を掌握し、6月4日には美濃瑞龍寺崇福寺・千手堂・西入寺に禁制を掲げた(瑞竜寺文書他)。以後、中立の動きを保つ。

 

イエズス会宣教師グレゴリオ・デ・セスペデスの報告によれば、「岐阜において太子の宮殿が掠奪され、諸侯の一人が城を占領したが、いずれに味方するか発表しなかった」(1583年2月13日付ルイス・フロイス書簡)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%88%A9%E5%A0%AF

 

 あわよくば美濃を手中に収めようという意図が見えるように思う。しかし、光秀に味方すると表明しなかったところを見ると、逆臣につくのはためらいがあったのだろうか。

 

 岐阜城はもともと稲葉山城と言われていた。岐阜城の占拠というと、竹中半兵衛安藤守就稲葉山城を占拠したことが思い出される。

 この時安藤守就は、本能寺の変に乗じて挙兵し、北方城を奪取したが、最終的に稲葉一鉄に攻められ、負けて自害している。

 いままでに出てきた人物の中で、本能寺の変に加担する理由が一番明快なのが安藤守就だろう。西美濃三人衆の一人として信長の美濃侵略を助け、その後も重臣として各地を転戦していたが、変の2年前、突然「昔、叛意を抱いた」という理由で織田家を追放された。

 変に乗じて兵を起こし城を奪取しているので、彼も変の発生を事前に知っていたのではないかと思う。そこから斎藤利堯に、自身の稲葉山城占拠の経験から、岐阜城を占拠するようアドバイスしたのではないか、という気がする。

 

 しかし、斎藤利治が変の発生を事前に知っていたとして、本当の忠臣ならば変の発生前に信忠や信長を逃したはずである。斎藤利治は信忠とともに誠仁親王の御所に立てこもり、誠仁親王を逃しながら、信忠と共に親戚の斎藤利三と戦い、斎藤利三の降伏勧告を受けながらも降伏せず、戦って死んだとされている。

 彼が何を考え、どうしようとしていたのか。斎藤家として美濃国を土岐家、斎藤家のもとに取り戻そうという考えは理解しながらも、逆臣の汚名を着ることを良しとせず、信忠が関白らの訪問後に京を離れるのを防ぐために変の一日前に合流、その後、変に協力した誠仁親王を逃しつつ、自分は忠臣として死ぬことを選んだのかもしれない。

 

 土岐の話が出たけれど、明智光秀が自らの心情書き残したと考えられている句がある。明智光秀の心情は明智自身が述べない限り基本的に不可知であるが、この句には彼の心情が述べられているように見えるので、ここから変を起こした理由を探ることができるかもしれない。

 変の3日前である5月28日、明智光秀連歌の会を主催し、自ら最初の句を詠んだ。

 

 ときは今 あめが下知る 五月かな

 

 この句は、「いま、時は五月雨のふりしきる五月である」という表の意味の裏に、「(美濃守護である)土岐氏の庶流である明智氏の自分が、天下を知る五月だなあ」という意味があると言われている。

 普通に、深読みしなくても「あれ? 叛意があるのかな?」と思われてしまいかねない、非常に危うい句だと思う。こんな犯行予告みたいな句をなぜわざわざ明智光秀は詠んだのか、というのが問題になる。

 変の関係者である朝廷の人々に、いちいち密偵を送って「決行します」と宣言するのが大変なので、公家の共通言語である和歌を使って、暗号のようにして決行を宣言したかった、というそれらしい理屈をつけようと思えばつけられるかもしれない。

 それに加えて「土岐」というのを強調することで、これが美濃の国を正当な人間の元に取り戻す戦いだ、と宣言することで美濃の人間を発奮させる、あるいは共犯関係を自ら明らかにすることで美濃の人間の退路を塞ぐ、という目的があったのかもしれないとも思う。

 なので、この句には実際に、光秀が変を起こした理由が記されているのではないかと思う。土岐源氏として、美濃を取り戻し、さらには天下も取る、というのが明智光秀の目的だった、というのが私の考えだ。